日本に技術(shù)革新を興した島津斉彬の偉業(yè)―鹿児島市「尚古集成館」
- 更新日:2016年03月11日
- カテゴリ:歴史
19世紀(jì)は、
イギリス、フランスなどの
西歐列強(qiáng)がアジア各國を
植民地化するため進(jìn)出してきた時(shí)代です。
1840年
東アジア最大の清國は
アヘン戦爭(zhēng)において敗北し、
イギリスの半植民地となりました。
幕末の日本にとっても、西歐列強(qiáng)は脅威でした。
江戸時(shí)代の薩摩藩は
薩摩國、大隅國、日向國や琉球國を領(lǐng)有していました。
南北1200キロにも及ぶ広大な領(lǐng)域で、
殆どが海に面した海洋國家でもあります。
西歐列強(qiáng)に危懼した第11代藩主、島津斉彬(なりあきら)は、
1852年(嘉永5年)西洋の科學(xué)技術(shù)を?qū)Wび導(dǎo)入して、
軍備の近代化を図ろうと、推し進(jìn)めたのが『 集成館事業(yè)』 です。
斉彬は島津家別邸「仙巌園」に隣接して、反射爐をはじめ、それに付隨する溶鉱爐、ガラス工場(chǎng)や蒸気機(jī)関の製造所などの施設(shè)を建設(shè)しました。
これらの工場(chǎng)群は、1200人もの雇用を生み『集成館』と命名されました。日本の近代工業(yè)化の始まりでもあります。
1863年(文久3年)斉彬の亡くなった後、
生麥?zhǔn)录硕摔虬kした『薩英戦爭(zhēng)』で、
イギリス軍の圧倒的な軍事力と技術(shù)力を思い知らされた薩摩藩は、イギリスとの和平交渉の過程において、藩の軍事力を強(qiáng)化するため軍艦の購入を決めました。
斉彬の遺志を継いだ島津久光(ひさみつ)と藩主の忠義(ただよし)は、西洋の文化や技術(shù)の導(dǎo)入を加速させ、1864年(元治元年)6月には藩営の洋學(xué)校「開成所」を設(shè)け、西洋の技術(shù)を?qū)Wばせました。學(xué)んだ技術(shù)で稼働させたのが、この機(jī)械工場(chǎng)である「集成館」です。
1865年(元治2年)3月には、
國禁を犯してまで19名の使節(jié)や留學(xué)生をイギリスに派遣しました。
1923年(大正12年)
「集成館」は「尚古集成館」
(しょうこしゅうせいかん)と名を変え、薩摩藩が行った近代化への事業(yè)に関する歴史的資料や、島津家の800年に及ぶ歴史の資料などが集められ、現(xiàn)在に至っています。
150年も前に西洋の工業(yè)力を?qū)Wんだ薩摩。
數(shù)々の工業(yè)製品の展示には當(dāng)時(shí)のもの作りに対する姿勢(shì)がうかがえます。
(殘念ながら館內(nèi)は撮影禁止でした。)
建築の材料には、鹿児島で古くから塀などに使用されていた、溶結(jié)凝灰?guī)r(ようけつぎょうかいがん)がレンガの代わりに用いられており、當(dāng)初から「ストーンホーム」と呼ばれていたそうです。鹿児島県內(nèi)に現(xiàn)存する建物の中では、最も古い洋式の工場(chǎng)と言われ、國の重要文化財(cái)に指定されています。
2015年には、
舊集成館に関する史跡が明治日本の産業(yè)革命遺産として
世界遺産に登録されています。
反射爐跡は
「仙巌園」の中にあり、
基礎(chǔ)部分の石垣が今でも殘っています。
反射爐のレプリカとそこで造られた150ポンド砲のレプリカが鎮(zhèn)座していました。
當(dāng)時(shí)、鶴丸城下に配備された大砲のサイズは、
砲身長(zhǎng)4.56メートルで
重量8.3トン、
最大飛距離3,000メートルで、薩英戦爭(zhēng)に使用されたそうです。
尚古集成館に隣接して、
鹿児島の伝統(tǒng)工蕓品の一つ
「薩摩切子」の工場(chǎng)とショップが
「磯工蕓館」。
職人の方々が
それぞれの工程に分かれ、
美しい光を放つ切子を丁寧に作っていました。
薩摩から徳川家へ嫁いだ、あの「篤姫」も嫁入り道具の一つとして持參したそうです。
『富國強(qiáng)兵』『殖産興業(yè)』を掲げた島津斉彬が行った集成館事業(yè)は、西郷や大久保らによって、明治の國家政策に流れを継いだに違いありません。
尚古集成館
鹿児島市吉野町9698-1
電話 099-247-1511
※寫真はすべて平成28年3月撮影
※霧島高千穂リゾートより約51㎞